こんにちは、むとうです。ひとつよしなに。
千田さん(16年入学)のブログのように坂道の曲名をタイトルにしました。
追いコンで同期が「卒業を実感しています。」と話していましたが、自分は全く感じていません。このまま、4月も集合練習に行ってしまいそうです。ただ、ずっといるのは老害ですので(もうすでに老害になっていますが)、ひとつのケジメとして卒業感強めで書いていきたいと思います。
長いと思ったら、一番下までスクロールしてください!!
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1番になりたかった。
その思いがあったからこそ、大学でも陸上生活を選びました。高校生で初めて勝つことの喜びを知りました。中学生まで何をやってもダメな自分で、陸上部に入ったものの長距離の駅伝メンバーの補欠にすら入れませんでした。だから、自分にとって競歩は希望でした。初めての県大会で7位、秋の新人戦2位で関東大会出場しました。結果が出るとはこんなに楽しく、同時に自分よりも強い選手に憧れ、勝ちたいと思いました。
勿論、上手くいった時間は少なかったです。高2の南関東総体で負けてから思うように歩くことができませんでした。身体が思うように動かなくなり、歩くことに恐怖を覚えるような時期もありました。ただ、それでも競歩しかない自分にとって、簡単に手放すことができない大事なものでした。高3の引退試合が終わり受験勉強に専念する時期であっても、「悔しさをバネに」みたいな思いは頭の片隅に持ち続けていました。
大学で競歩を続ければ絶対結果が出ると思っていました。自分は高校の時から東京大学の練習に参加していました。当時、大学の先輩方はとにかく速くて強かったです。日本選手権の入賞や関東インカレ優勝など実績は勿論のこと、何より歩く姿が堂々としており、周回差がついて抜かされる背中は本当にたくましかったです。憧れでしたし、こういう選手になりたいと心の底から思っていました。ただ、大学から競歩をスタートさせた人もいましたし、高校のベストを見比べて、自分の方が勝っていると可能性に夢を膨らませていました。陸上の神様は、最後は微笑んでくれるのだと信じて・・・
上智大学に入学して、色々な部活やサークルを見ました。でも、やっぱり陸上をやりたいという思いはずっとあったので、ほとんど迷うことなく入部したと振り返ります。
ただ、上智の陸上部は描いていたものと異なっていました。一番は長距離をやらなくてはならないということでした。少しでも競歩に時間を捧げたかった自分にとって、歩きと走りを両立させることは大変でした。或る意味走ることを諦めて競歩に転向したので、そこでまた走るというのは大変でしたし、気があまり乗りませんでした。「走りたくない」と言えば良かったものの、言葉が悪いのですが、少しパワハラ気質だった感じがあったくらい厳しい環境でしたし・・・笑 こんなプロフェッショナルな場所で本気に取り組んでいた先輩方の姿を見ていると、そんなことは言うことはできませんでした(表情には出ていたと思いますし、そのことがなんとなく伝わってしまっていたとは思うのですが)。
1年生の頃は予選会の標準を切ることができなかったのですが、松尾さん(18年入学)は先に標準を切って、池田さん(17年入学)は同じ年に標準を切って、志村さん(17年入学)は切ることができなかったのですが、それでも一緒に練習をしました。ここの先輩方は、先輩である以上に戦友であると勝手に思っていました。また、加えて宮澤さん(17年入学)と重盛さん(18年入学)はずっとサポートしてくれましたし、千田さんはずっと在学中も卒業後も優しい先輩ですし、山下さん、飯田さん、井上さん(いずれも16年入学)はとにかく速くて強くて尊敬する先輩でした。
こういう環境に凄い先輩方がいたからこそ、陸上=競歩という概念は変わってきました。二刀流という言葉を使うには到底及ばないのですが、何としてでも両方成功させたかったです。競歩で結果を出すこととともに長距離でもしっかり成果を出す、何としてでも予選会の標準を突破して立川を走るということは成し遂げたかったです。双方とも中途半端にしてはいけないと思いました。
プロフェッショナルな場所だったからこそ、コロナ禍でもどうにかやることができました。集合練習ができなくても朝5時に起きて公園に行って練習をしていました。世の中も自分も制限があり苦しい時期だったのですが、勝つためには月間600キロ練習をするのが必要だと考え(これが生理学的に正しかったかどうかは別として)捧げてきました。その甲斐もあり、2年生で予選会の標準も競歩の関東インカレ標準を突破することができました。この時は本当に幸せな時間でした。ほんの少し光が差した時期でした。
ただ、そこからまた本当に苦しい時間でした。地獄でした。満を持して挑んだ3年生の関東インカレはあっけなく失格でした。今思えば、フォーム的に致し方ないといえます。しかし、当時は信じたくなかったことですし、泣くほど悔しかったです。また、3年生の予選会は酷かったと思います。コンディションが良くなかったとはいえ、出したい記録を出すことができませんでした。チームとしての結果も途中棄権で出すことができず、ただの参加校でした。
本当はどうにかしたかったです。性格としてチームの先頭に立って物事を進める人間ではないのですが、心の底から思っていました。学生期間も半分以上過ぎてしまったので、歩きも走りも良い方向に進めたかったです。ただ、思いは空回りして歩きはまた分からなくなってしまいました。何度フォームを変えても失格の境界線を越えるか超えないかの日々でした。並行して長距離メンバーは同期が辞め、後輩も来なくなる人もいました。自分の就活も重なったことも含め、目指してきたものが少しずつ、でも確実に遠のいてしまいました。
最終学年になっても、試行錯誤をしても光が見えることはなかったです。後輩が14、15分台で戦う世界線にいたことや関東インカレ標準を切ったことがせめてもの救いだったのですが、自分の歩きは本当に分からなくなってしまい、長距離部員は予選会に必要な最低限の10人とは程遠くなってしまいました。
そんな中で迎えた関東インカレ、色々な思いがありました。優勝したい、3位までなら、せめて入賞、いや完歩・・・時間が経過するごとに目標を下げてしまう自分の不甲斐なさもありました。ただ、自分に負けてはいけないということと、やっぱり勝ちたい。敢えて表現するなら人を殺めてでも勝ちたい、絶対にありえないことですがこの勝ちたい気持ちはどんな自分でも持っていました。
結果は承知の通りですが、失格してしまいました。前半で警告が2個ついて、もう駄目だと思ったのですが、何とか集中力を切らさずにゴールしました。しかし、K5(いわゆる、一発失格)で記録は残りませんでした。
本当に悔しく、情けなかったです。泣くにも泣けませんでした。でも、同時に安心感もありました。全部のプレッシャー、勝ちたい気持ち、自分との戦い。結局、言語化できなかったのですが、選手としてもう終わりというのを客観的に分かってしまいました。
ここで予選会への望みがあれば、また違った世界があったと思うのですが、残念ながら長距離男子の新入生も1人(2人いましたが)で人数という壁はとてつもなく高かったです。そのため、関東インカレは自分自身が目指していたものが、最後に形になる場所でした。だから、結果を何よりも求め続けた自分にとって、関東インカレで負けてしまったので土俵を去らなければいけないと。
自分にとって、上智での陸上人生は過去に描いた青写真を達成することと、良い伝統をつなげていくことだと考えています。自分に落とし込むと競歩で結果を出すことと、予選会の襷を繋いでいくことです。だから、すごく申し訳ない気持ちでいっぱいです。前者は何より高校の時、夢を描いていた自分にとって、後者は偉大な先輩方、これからもがんばる後輩にバトンを引き継げなかったことに対して。「一度出場できないと、次出場するのに何年も時間が掛かってしまうよ」と言われたことがあります。まさにその通りで、至極当然のことなのですが、じゃあ何をしたらいいのか分からなくて、どうしようもできなくて、本当に歯痒さを痛感しました。
本当にごめんなさい。先輩や後輩、そして過去の自分へ。勝負する世界で結果を出すことができなくて。
関東インカレが終わった後、何となく歩いて、走って、フォームの動画を観て、色々な人のブログを閲覧していました。少し周りも見ました。正直、何も分からないし、変わらなかったです。でも、ただ何となく感じたことがあります。
歩けて、走れて、みんなと一緒にいれて、本当は楽しい世界だな。
何より楽しかったです。純粋に陸上を楽しむことができました。ここは結果だけで動く世界ではありませんでした。自分のペースでじっくり向き合って、少しずつ進めばいいのだと感じることができました。ここから、気持ちが軽くなりました。がんばって結果を出して、また練習をがんばって、みたいな資本主義システムの価値観にはまらなくてもいいのだと。そう思えたので、練習に行くのが楽しかったです。また、周りの人が本当に優しかったです。何度失格してもアドバイスを頂けたことや、タイム計測をしてくださったり、ご飯に連れて行ってもらったりと、沢山恩恵を受けました。今までも充分感じていたことなのですが、周囲を見渡すことができたから、より一層心の奥底から感じることができました。自分のために人生の大事な時間を使ってくれたことが、本当に泣きたくなるくらいありがたいものであると実感しました。
長距離の後輩は口下手で、自己中で、たまにイラっとしてしまうこともありますが、ずっと努力していて、本当にがんばっています。こういう姿も見えてきました。特に永森はすごく速くなってくれましたし、長谷川もよく一緒に練習するので、成長していることは身をもって実感しています。ダイスも馬場ちゃんも石嵜も、自分から言うことはないので、自分の進みたい方向へ進んでくれれば充分です。人数は少なく苦しい時期であるのですが、後輩は託された夢を少しでも大きくすることができる人たちです。そして、また新しい道をつくってくれる人間です(勝手なこと言ってごめんね)。大袈裟かもしれないのですが、力強い後輩なので、今後も応援してください。自分も応援していきます。
最後だからというのもありましたが、上南戦くらいから練習も合宿も試合も、そのこと自体が本当に楽しくて永遠に続いてほしいと(練習や試合は終わりがないと流石に嫌ですが)思うような環境でした。そして、陸上を通じて出会った人の存在が本当にありがたいと実感しました。少し感じる時期が遅すぎたとは思うのですが、自分なりにがんばったからこそ辿り着いた場所でした。
本当は直接伝えたいのですが。
長距離もマネさんも短距離もフィールドも、東大競歩の皆さんも、陸歩やSNEの皆さんも、逗子開成のみんなも、その他陸上で出会ったすべての人に伝えさせてください。
本当にありがとうございました。出会えて、ともに戦えて本当に幸せでした。
大学生活の4年間、中学生から始めた11年間の陸上生活は自分の人生にとって大きな経験になりました。勿論、素直に結果を出したかったです。自分なりに真剣に向き合った競技だからこそ、目標を絶対達成させたかったです。競技場がないから、常に練習場所を探さなければならなかったですし、「主体性」を謳うけど正しい道なんて結局分かりませんでした。敢えて言うのであれば、しっかり結果を出した道が正解だと思います。自分は結果を出せなかったから正解の道筋を辿れなかったです。そして、強豪校ではない非強化校、だからこそ中途半端にはなりたくなかったです。文武両道という言葉が大嫌いなので、勉強はどうでも良かったです。他のことも興味もなかったです。このまま、野垂れ死にしてもいいとも思っていました。とにかく陸上で一番になりたかったです。この想いはずっと捨てることはできませんでした。だから、悔いはめちゃくちゃあります。
しかし、真っ直ぐな陸上人生ではなかったからこそ、沢山寄り道をしました。そこで様々なことを吸収することができました。苦しい道を思い出せないこともあるのですが、それは精一杯曲がった、でこぼこした道を歩いてきたからだと思います。そして、このことは自分を守ってくれる大きな盾になるのだと。人生の大きな礎となる学生時代、その最後にあたる大学生活まで陸上とともに進んでいって本当に良かったです。あと、そこで沢山の人と巡り会えたことは本当にラッキーなことでした。ここでの経験をこれからもお守りにしていきたいです。責任とかがより求められる世界を乗り越えていくために、自分を守ってくれる盾を持ち続けていきます。しっかり、太陽とか社会とかと向き合ってがんばっていきます。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
長々と失礼しました。
やっぱりこの場所を離れるのは寂しいです。色々な場所で「お世話になりました」と言う季節なので、もう寂しさマックスです。もう泣いちゃいそうです。
最後まで上智陸上部で練習ができて幸せでした。ずっと居座ってしまい、ずっと迷惑をかけてごめんなさい。こんな自分が後輩に伝えることはほとんどないのですが、5つだけ
・サイレント遅刻はしない
・同期と仲良く
・赤坂見附は意外と近い
・気晴らしにレインボーブリッジまでジョグをする時は呼んでください
・みんなの努力が報われるように応援します
ひといきつきながらがんばってください。幸せだと思える瞬間があることを心の底から願っています。
先輩の皆様も
卒業祝いということでLINE下さい笑 (ついでにいいね!もお願いします)
東京湾に沈められないように生きていきます。
沢山の愛を注いでくださって、素敵なご縁を繋げてくださって本当に幸せでした。陸上人生はまさに夢のような時間でした。
全部夢のままで…
夢でまたお会いしましょう!アディオス!!